緊急特別企画

   第一章
 


  こんにちは。
  なんだか最近ロボピッチャーのHPのために書くテキスト量が仕事のテキスト量を超えてきたような気がする、ボーカル・ギターの加藤です。
  で、先週土曜日に間に合わず、今週も土曜日に間に合わなかったのはひとえに僕のスケジュール管理能力がない故です。今週は実はとある方との対談をアップする予定だったのですが、僕の原稿があまりにも遅く、しかも結構シビアな内容だったので原稿チェックが間に合わず、今週のアップが無理になってしまいました。がーん。
  というわけで、お詫びといってはなんですが、今週は特別企画「ロボピッチャーが出来るまで」をお送りいたします。まあ、たった今思いついたわけですが、そういえば、ロボピッチャーがどうやって出来たのかをきちんと書いたことがないなあと思ったので書いてみます。書いておきます。
  で、書き出したらものすごく長くなっちゃったので今回は第一章だけを掲載。
  続きは近いうちに。



  ハラッパ=カラッパ解散

  2001年末。僕は4年くらい続けてきたハラッパ=カラッパというバンドを解散しようかと思っていた。
  ギターが半年前に抜けて、大ダメージを受けたけど、なんとか立ち直った。 だけど今ドラムも抜けるって言い出した。理由は就職するから。ちなみにギターが抜ける理由は「音楽をお金に換えるのは嫌だ」だった。ぜんぜんお金に換わってねえ。ただ月に一回ライブをするだけで、CDも出さずツアーにも滅多に行かないバンドがお金に換わるわけがなかったけど、なぜか彼はそういい残し去っていった。
  もちろん、僕は、音楽をお金に換えたいとは思っていた。それは、大金持ちになりたいとかじゃなくて、僕の音楽にはその価値があると思っていたからだ。それはお金だけではなく、音楽の良し悪しの対価としての集客とかその周辺の待遇とか。まあ、簡単に言うと「こんなに良い音楽を作ってるんだから、もっとちやほやされてえ」と思ってた。
  ギターとドラムが抜け、残ったのは僕とキーボードとベース。しかし、僕以外の二人にはちゃんとした定職があった。しかもものすごく大企業に二人とも勤めていた。僕はおずおずと言ってみた。
「ねえ、音楽でどうにかなろうっていう気はあるの?」
二人はいう。
「まあ、食えるなら食いたい」
そのコメントは、僕の温度とあまりにも違った。僕は「何が何でも音楽で食いたい」と思っているわけではなかったけれども、音楽で食えなかったら餓死するっていう状況だった。だって仕事してなかったんだもん。毎日毎日曲を書いて、詩を書いて、自分の詩のすばらしさに「いやあ、俺ならこの一行に300万だすね」と声に出していってる毎日だったのだ。まさに声に出して言われたい日本語。つまり、いつか時代が追いついてハラッパ=カラッパの集客がじわじわ増えてきたらそれはそれで考えますよ、いろいろと。みたいなそんな悠長な話ではなかったんである。なんならすぐにでもCD出して、なんとか次の紅白には間に合わせて、え?なになに?印税ってCDが売れてから半年経たないと入ってこないんですか?じゃあ、今月の支払いのために名曲書いても仕方ねえのかよ!ってことに本気で腹を立てたりしてた27歳。子供の頃は27歳ってもっとちゃんとしてると思ったよ。ちなみに、僕は親父が27歳の時に生まれました。なんかがーん。
  で、話をハラッパ=カラッパに戻すと、まあ、これは解散するべきかなあと思っていた。メンバーのことは大好きで、もう何年も一緒にやってきたし、一緒に成長してきた。僕だけが突出して成長したわけではなく、みんな同じリズムで成長してきたからこそ完成したグルーヴだってある。そういうのって、考えて作り出せるものじゃない。偶然や勢いや音楽の神様がふらっと気まぐれで作ってくれるもんだ。このグルーヴを捨てたら、またいちから神様を探すところから始めなくちゃいけない。第一ライブ前にみんなでご飯を食べに行く感じとか、ツアーの時に一緒に来るまでしゃべった感じとか、スタジオでの喧嘩とか、ステージの上でちょっと目が合った感じとかもう全部全部青春なわけです。うおー、恥ずかしい。でも僕の青春の何割かはハラッパ=カラッパに費やしたわけです。それがゼロになる。つまり無駄になるってのはなんだか自分の20代を否定するようでものすごく嫌だった。
  で、まあ、ミーティングですよ。
  辞めることが決まっているドラマーと、大企業に勤めるベースとキーボード。そして俺。
「えーっと、まあ、ドラムが抜けることになって、僕としてもどうしようかなあと思っております」
「・・・・・・」
全員。無言。しゃべったら損だと思っているかのようだ。
「で、僕としては音楽をずーーっとやっていきたくて、出来たら死ぬまで歌っていたくて、そのなんというか、あんまり中途半端な気持ちでバンドをやるってのはどうかと思うわけです」
「・・・・・・」
「えー、その、まあ、いろいろ事情はあると思うけど、もうその音楽をやる理由とか、仕事と音楽とどっちが大事とかそういう議論に疲れたというか」
「・・・・・・」返事はない。
  この「仕事と音楽のどっちが大事か」という話は学生のころから山ほどしてきた。「音楽が好きだ!」でも「仕事をしないと食べていけない」じゃあ「音楽を仕事にしよう」でも「そんなの不安定すぎる」などなど。僕は比較的優秀な会社に入りやすい大学に入ってしまったためいろんなことを割り切れない人たちばかりが周りにいた。だからみんななんだか音楽を趣味とするのか仕事とするのかを微妙に悩んでいた。僕から見たら「いやいや、お前は悩まなくていいよ。仕事がんばりなさい」っていう人もたくさんいたけれど、悩みってのは平等だ。みな一様に「音楽で生活するには」とか「100人のお客さんの前で演奏するには」とかそんなことを言っていた。ましてや僕らは弱小音楽サークルの弱っちい構成員だったので、なぜか身内でしゃべることがものすごく大切にされた。大学生ってだいたいみんなああなのかな。今となってはわからないけれど、とにかく僕らは夜な夜な集まって、将来音楽とどういう風に付き合っていくかを話した。「俺には才能がないから」っていう奴とか「俺は世界に出て行く」っていう奴とかいろいろいたけど、なんだかんだでほとんどが就職活動のときにスーツを着た。いや、むしろ喜んで着ていた。僕が知る限り、その軽音サークルでリクルートスーツに袖を通さなかったのは有田さとこくらいだ。
  実は僕も袖を通した。
  僕はミュージシャンになるほどの実力が自分にあるとは思っていなかったし、なんなら音楽を始めたのは大学に入ってからで、曲を書き出したのは大学三回生の終りくらいでそんな思いつきで音楽やってる人がプロになれるとは思っていなかった。でも、当時お世話になっていたライブハウスの人に「お前はすごい才能がある。就職なんて絶対するな!俺が面倒見てやる!」といわれたのですっかりその気になって、「そっかー俺って才能あったのかあ。音楽って結構簡単だなあ」とか思ってた。
  で、四回生の春くらいにママに「ねえ、ママ。俺ミュージシャンになることにしたから」っていったら、もう急にママは般若の形相になり、「はあ?」といった。その「はあ?」はあまりに雄弁でいろんなメッセージがこもっていたので、僕としてはいちいち読み解くまでもなかった。まあ、端的に言えば二つ。

1、お前に音楽の才能なんてねえよ!
2、なんのために高い私立大学に入れたと思ってんだ!就職しろ!

  ぐう、の音もでないほど説得力のある「はあ?」に僕はもうすっかり戦意を喪失し、まあ、ひとまず就職するしないに関わらず就職活動をしてみることにした。で、めんどくさいので家から一番近い会社に手紙を出したらびっくりすることにそこに決まってしまった!だから、僕が就職活動用のスーツを着たのはその時くらい。で、その会社は印刷の会社で、今SCRAPの印刷をそこに頼んでいるという不思議関係です。ちなみに当時の上司が今でもロボピッチャーのライブに来てくれます。
  で、とにかく、僕は就職をするのだけど、こつこつと毎月ライブは続け、お客さんはどんどん増えていった。どんどん増えたって言っても30人とか40人とか。そんなくらい。でも楽しかった。仕事はものすごく忙しくて激務ではあったけど、その合間の時間を見つけて必死で音楽をやっていると、「ここが俺の生きる場所だ!」っていう確信と安心感みたいなのがあった。
  ある日、土曜日にライブがあった。でもどうしても見積もりを出さなくてはならない入札もあって、僕は仕方なく午前中は入札、午後からライブのリハーサルというスケジュールを組んだ。前日の金曜日は夜遅くまで残業し翌日のライブと入札に向けて万全の体制を整えた。はずだった。はずだったけど、あまりにも緻密に用意したせいかなんと僕は入札に遅刻。会社からの電話で起こされ、必死で会場に行くももぬけの殻。で、上司にめちゃくちゃしかられたあと行ったライブは人生でも1本指に入るほどひどいものだった。指が動かなくなるライブとか、足が動かなくなるライブは何度か経験したことがあるけど、口が動かなくなったのはあの時が最初で最後。その時のライブのMC。
「あ、あのー今日すげー嫌なことがあって。そのー、そういうの忘れたいって言うか、そういう感じがなんかもう消したいって言うか、まあなんかわからへんけど、ちょっとその落ち込んでてどうしていいかわからんくて、まあ、今日はライブやしがんばろうとは思うけど、まあ自分なりにがんばるっていうか、なんとかやってみます」
  煮え切らねえ!煮え切らねえよ加藤さん!
  とにかくそんな感じで頑として煮え切らない加藤さんは1時間のライブを追え、楽屋で頭を抱えて「こりゃ仕事と音楽の両立は無理だ」と思ったわけです。これじゃ両方駄目になると。
  その数日後に、1999/3/15にフィッシュマンズの佐藤伸治が死んだというニュースが流れる。
  もう僕はこれは偶然には思えなくて、「今辞めないともう辞められない」と思った。これまで、同期や上司にはちょくちょく「俺には音楽がありますから」みたいなことを匂わしてたけど、これはもう決定的な啓示ではないかと思ったわけです。僕が好きな音楽を世の中に残したい。フィッシュマンズが無理ならもう俺がやるしかない。と。
  ところが、まあ、会社を辞めるってのはたいへんなことです。僕はまあ、みなさまもご存知の通り何をやってもまあまあ上手なので、会社でもちょっとしたもんだったのです。もしくは上司が管理責任を問われてしまうからかも知れませんが、もう毎日毎日「辞めないでくれ」の大合唱ですよ。「辞めないでくれ教」の教祖になったのかと思うのほどみんなが僕のところに来て「辞めないでくれ」って唱えて帰っていくのです。で、僕の心がなんとなく「そっか、こんなにみんな俺を求めてるんだなあ」なーんて風に傾いてた頃になんとYAMAHAミュージックから手紙が来て「いやー加藤君、お前すごいや。うちでどーんと花火あげてみない?」なんて書いてあったわけです。
  来た!
  と思ったです。やっと来たかと。おせえよ、と。お前が俺の就職活動中にその手紙をくれてたらこんなにたくさんの人たちを傷つけることもなかったんだと。そんなことを思った。
  ま、でも遅すぎたわけじゃねえぜ、と僕はこっそり思った。まだ俺はさび付いちゃいねえからな!ひゅーっ!
  で、その手紙を上司の前にひらひらとはためかせながら、「まあ、結局俺って選ばれた人間なわけよ。こんな会社で一生終わらす気もねえしー」みたいな感じで会社中が必死で止める手を振り払って会社を辞めたのでありました。
  で、次のライブをYAMAHAの新人発掘担当の人が見に来た。
  僕としてはもう、会社も辞めたしミュージシャン気取りですよ。「ああ、俺の伝説が今日のステージから始まるんだなあ」みたいな感じ。もう数年後に出す自伝の出だしとか書けちゃう感じですわ。「その時加藤の心はなぜだか澄んでいた」みたいな!みたいな!っていう言葉がなんかもううっとーしー!
  その日のライブはもう必死ですよ。あらん限りの力を振り絞って、その時に出来る全部をやりました。もうやりすぎるくらいやったね。ライブの後YAMAHAの人が楽屋に挨拶に来て、もうその時に俺には「きゃー、もうかとちゃんさいっこー。音楽の歴史変えちゃうね!」みたいな感じで来て、契約書にはんことかせびられるのかと思いきや、「うーん。お疲れ様。まあよかったですよ。ふーん。君って、毎回こんな感じなの。あーなんか目つきが怖かったなー。帽子かぶったりしたら?あと、音程が不安過ぎるね」とかいわれて、はあ?ほめられる準備しかしてなかったから、そんな批判には対処できん、と思うまえに身体と口が反応して「じゃあもうええわ。お前に気に入られる為にやってるんちゃうねん」とかいってその人のお尻をぼーんと叩いて追い返した。最後のセリフは「あっちが出口です」だった。
  今から思うと鼻血が出るほど恥ずかしい立ち振る舞いだけど、まあ当時はなんとなく整合性が取れていると自分では思っていた。結局レコード会社とか就職とかそういうシステムの中でやっていくんじゃなくて俺はもう「音楽」という芸術のもつポテンシャルの中で生き抜いていくのだと、そういう誇大妄想的な勢いが体中を包んでいた。
  で!やっと本題に戻ると、そういう状況で僕としては組織にも属さず、ただただ誇大妄想とお友達になりながら続けてきたハラッパ=カラッパが解散の危機なわけです。で、辞めると決めたドラマーと、大企業のベースとキーボードと、負け組み気配濃厚なギターボーカルがワンルームのマンションで昼真っからビール飲んでるんですよ。
「まあ、俺は続けてもいいと思ってるけどね」とベース。「加藤がやりたいと思うなら」

「でもドラムがいなくなってどうやって続けるの?」と僕。「第一もう俺は仕事もしてなくて、音楽しか残ってないし。他にやることが何にもなくて仕方がないから毎日毎日新曲創ってて、でも練習は週に一回3時間しかなくて、ライブも月に一回しかなくて、もうそのペースがすごくしんどい」
「私はもうすぐ仕事をやめると思う」とキーボード。
「お!じゃあ、バンドをがんばるの?」
「うーん。でも、仕事をやめて音楽だけをやるかどうかはまだわからない」
「むう」と声にならない声を出す俺。いってみれば、僕の音楽人生のほとんどはこの人たちとやってきたので、いなくなるのはつまり僕の音楽がゼロになるようなもんだ。出来ることなら一緒にやっていきたい。でも、僕にも譲れないラインがある。「俺にはもう音楽しかないんだよ」
「そっか・・・」とキーボードがうつむく。ああ、辞めることを決意したなと僕は思う。

「まあ・・・、じゃあ・・・」とベースもなんとなくそれを肯定する発言をする。
僕はこのバンドを解散させたのは俺だ、俺なのだと思いながらも、心の真ん中あたりで「なんでついてきてくれないんだ!」とか思ってた。みんなの顔がぎりぎりの穏やかさを保ちながら、なにかの拍子に誰かが泣き出すんじゃないかっていう緊迫感も同時に。
  これといって特別な言葉もなく解散は決定された。
  確かその後僕らはそばを食べに行った。4人で。
  たわいもない話。というか、ずっと一緒にいて、共通の知り合いの数も半端じゃなかったから会話なんて途切れることはまったくない。しゃべろうと思ったらいつまででもしゃべっていられた。
  だから助かった。
  会話がなくなったらまた解散について話さなくちゃならなかったから。
  僕らはずずずずずずずっとそばをすすり、どうしようもなくどうでもいい話を続けた。大阪の梅田で。お昼の3時くらいに。
  ハラッパ=カラッパの解散はそんなふうにそっけなく決まった。多分、言葉にする前からみんなが予感してたからあっさり決まったんだろう。
  ずるずるとそばをすすりながら、僕はもっと哀しくなるのかと思っていたらそうでもないなと思った。だいたいこんなもんだ。今までのことが終わって新しいことが始まる。別に卒業式や入学式みたいな特別な儀式があるわけじゃない。大学を卒業した後の門出はだれも祝ってくれないのだ。僕はそばをすすり、このそばを食い終わったら、ハラッパ=カラッパの次のバンドを動かそうと思っていた。
  まさかその後の人生で僕がこんなに音楽以外のことにがんばりだすとはまだ誰も思っていなかった2001年末。
  僕はただ、音楽を体中で浴びたいがために、1つのバンドを解散させた。

 つづく。


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