緊急特別企画

「ロボピッチャーが出来るまで」
   第二章



 

  ありちゃんについて

  蕎麦屋を出て、元メンバーと手を振って別れて、その数分後に僕はありちゃんに電話した。
  しばらくすると彼女は電話に出て「どしたん?」といった。後ろがやけに騒がしい。なんとなく楽しそうでありちゃんの声も心なしか弾んでいる。
「いや、あの、なんか忙しかったら後でかけなおす」と僕。
「あー。うん。今日平井さんの結婚式やねん」とありちゃん。
  あー平井さんのー。とかいいながら、あれ?俺はなぜ彼の結婚式に誘われなかったんだろうと思った。平井さんは大学時代の軽音サークルの先輩で、まあなんか微妙な人だった。微妙という書き方をすると良くない。端的にいうと「駄目人間」だった。いつもだらーっとした様子で「うぜー」とか「だりー」とかいっていて、口元がだいたいうっすらと濡れていた。ある日僕が自転車で大学から帰っていると銀行の前で空を見上げる平井さんがいた。どうしたの?と声をかけると「お金が・・・」とつぶやいている。話を聞いてみるとどうやら今月入る予定だった奨学金が入っていないとのこと。えーそりゃ窓口に速攻文句いわなきゃ、といってみるがなんとなくぼんやりしていて声が届かない。大変だねえといってその時は別れたのだが、後々聞いてみるとそのお金は既に振り込まれてらしい。前の月もその前の月も規定よりたくさんのお金が振り込まれていたので、今後もこんな風に振り込まれ続けるのかと思っていたが、決められた額がすでに振り込まれたのでその月には振り込まれなかった。「じゃあ、先月までの多い分はなんやと思ってたん?」と聞くと彼は「いや、あしながおじさんかなんかが増やしてくれてるのかと」とまじめな顔でいった。人間とは自分より下の人間を見つけると優しい気持ちになる。僕はそっか、と穏やかな笑顔で彼の背中を叩いてあげた。「そのうちいいことあるよ。がんばれ」
  しかし、大学を卒業して数年後、僕が仕事をやめうだつの上がらない音楽生活に突入したころ衝撃的なニュースが走った。「平井、土地を買う」である。土地を買う?土地ってなんだろう。平井さんと土地は一番遠い関係でなくてはならない。平井さんとつながるのはカップめんとか、使用済みのコンドームとか、穴の開いた靴下とかそういうなんかちょっと人生でいうと斜陽っていうか、「ああ、この人の人生ってこうやって下降線をたどっていくのだなあ」みたいな感じでなくてはならん。その平井さんが土地を買うだと!?そんなはずはねえ!と思ったがなんとそれはほんとでしかも結婚とかするらしかった。
  当時の僕にとっては結婚とは夕日の向こうにあるはずの1000光年くらい向こうのお星様くらい遠い存在で、しかもそれは夕日のせいで一切見えやしなかった。見る気もなかったし、というかそういう制度があることをいまいち認識していなかった。今もまあそんなに変わらないけど、年を取った分知識は増えた。で、まあその結婚を平井さんがすると。しかも土地を買ったというニュースを聞いたときに、人間という存在価値の上下が入れ替わった音がした。具体的にいうと「ぐわん」みたいな音がして、これまでは搾取する存在だった俺が、嘲笑される存在へと変わっていた。平井さんによって俺があざ笑われている、と思った。なにせ彼は土地を買い、しかも結婚するのだ。人間業とは思えないクオリティの高いコンボだった。一方僕は会社を辞め、バンドを解散し、27歳にして貯金もなく、ライブのたびに落ち込んだりハイになったりしてへらへら生きていた。ラブホテル代だって割り勘だった。きっと土地を買う平井さんはラブホテル代なんて払わないのだ。その土地で奥さんと無料でセックスをするのだろう。
  なんという敗北感!あの銀行の前でぼやーっと口を開けて空を見ていた平井さんが土地を買って結婚して無料でセックスしているのだ。この調子で行くと次のイベント「子供誕生」とかも発生しかねない。フラグはもうたっている。パパになるのだ。マジかよ。俺なんてこないだパパに「なあお前さあお金大丈夫?」ってやさしく聞かれたばっかりだよ。とりあえず見栄を張って「ああ、まあ、あんまりないけど」っていったら1万円くれたよ!パパほどすげえ存在はこの世にねえって思ってたよ!そのパパになるのか平井さん!
  で、まあ話を戻すと、そんな平井さんの結婚式の日にどうやら僕はバンド解散の話し合いをしていたようで、まさにこれぞ人生の陰陽である。で、打ちひしがれた僕が真っ先に電話した女子はその結婚式でやけに弾んだ声で「なあに?」とか言っていた。「いや、別になんでもないけど・・・」と口ごもる加藤。「どしたの?」と促すありちゃん。こういうときはものすごく勘がいいのだありちゃんは。なにも隠せねえ。「いや、バンドが解散してね」と打ちひしがれた僕。「ありゃー」とありちゃん。「で、バンドやらないかと思って。一緒に」「お、やるやる」「はえー」「うん。まあでも今ばたばたしてるから夜にまた電話するね。」「うん」「ごめんね」といって電話は切れた。
  ありちゃん俺とバンドやってくれるのかあ。僕はそうひとりごちながらぼんやりと空を眺めた。その様子はあの銀行の前で立ち尽くしていた平井さんと酷似していたように思う。

  ありちゃんと出会ったのはロボピッチャーを作る8年前くらい。
  当時彼女は東側に雇われた美少女スパイで、僕は西側の諜報部員だった。お互いにお互いの情報を盗もうとして近づいたのだが、知らず知らずのうちに本当に愛し合うことになっていたというのは実は嘘で、大学のサークルで出会った。初対面のことは覚えていない。というのはそのサークルはやたらと女子が多く、なんか一人一人の区別が最初のうちはなかなかつかなかったのだ。彼女は僕との初対面を覚えていて、僕が部室で大声で歌いながら踊り狂っているのをみて「この人とは友達にはなれない」と思ったそうだ。残念ながらまったく記憶がねえ。
  まあ、その後なんとなく顔見知りになり、知り合いになり、時々話をするようになった。出会った頃のありちゃんはベーシストではなくてバイオリンを弾いていた。先輩のカントリーバンドでのびのびと演奏していて、うわすげえと思った。同じ学年で一番早くステージに立った人だったと思う。人懐っこくて、親切で、下ネタも大丈夫で、ゲームの話が出来て、お酒に強かった。忌野清志郎が好きで、僕が物まねをしてあげると喜んでくれた。僕は実は忌野清志郎の物まねが結構うまいのです。
  僕はなんとなくサークルのみんなには「いやあ俺も高校の時からバンドマンでよー」みたいな顔をしていたが、実は音楽なんてほとんどやったことがなかった。それどころか楽器に触ったことすらなかった。大体大学に入ったら演劇をやろうと思っていた。脚本が書きたくて、同志社大学に入ったようなもんだった。筒井康隆が同志社の劇団出身だったことも手伝って、演劇サークルでぐっとアングラな世界に浸ろうと思っていた。ところが、4月に入学して演劇サークルに見学に行くとなんかいけてなかった。こうなんつうか、もっとエネルギーに満ち溢れて演劇論闘わせて、劇団内で恋愛関係とかがもう大騒ぎでやりたい放題でうわーみたいな世界かと思っていたら、中にいたのは演劇おたくみたいな人たちばかりで、個人的な小さな演劇論をこつこつと積み上げている人たちだった。あとなぜか全員ジャージだった。心の底からダサかった上にお昼ご飯をおごってくれなかった。一応公演なんかも見に行ったのだけど、なんかぴんとこなかった。わあわあ叫んで終わりで、「この世界で俺は成り上がってやるんじゃ!」みたいな気迫はいっさい感じなかった。まあ、大学2回生とかでそんな気迫があってもびっくりするけど、当時の僕には物足りなかった。
  で、じゃあ大学でなにやろっかなーとぼんやりしていると、どこからかバンドの演奏が聞こえてきた。なんだなんだと広場の方に行くと、本当にへたくそなバンドが演奏していた。バンド名はラオチュー。3ピースで、英詩で、曲はU2のパクリだったけどなんかすごくかっこよかった。
  雷鳴が頭の中でなった気がした。爆音だった。その音はこうも聴こえた。「これでいいのだ!」と。
  思えばそれが生で見た初めてのロックだった。信じられないくらいへたくそで、一瞬でも気を抜けば曲が止まってしまいそうだったけど、そこにはなにか音楽への誇りとか、賭けている情熱とか、打ち破りたい何かとかが見えた。第一なんか僕にもできそうだった。
  これだ!と思った。
  演奏が終了後そのバンドのいるサークルの説明会に行った。
  そのサークルはFSSといい、なんの略だったっけな。フォークソングソサエティとかそんなの。まあでもなんかそこに行って「今日のラオチューみました。僕もU2好きなんです!」と言ったけど、ラオチューとU2の関係についてはサークルの担当の方は気づいていないみたいだったのでそこはそんなに強調しなかった。で、その後既にサークルに入ることが決まっていた新入生達が部室にいたので僕は様子を伺いながら端っこの方にいた。大体大学入学直後の男子ってのは自意識のかたまりである。いかに自分が優れているかを強調するかってことしか興味がない。言ってみれば僕もそうだったけど、なにせ音楽演奏経験がゼロだったので、ひとまずここはおとなしく様子をみることにした。
  で、基本的に社交的な人間は軽音サークルには集まらない。なぜなら、しゃべるのがうまい奴は音楽を道具として利用するだけだからだ。別に演奏しようなんて思わない。音楽の演奏を突き詰めようとする奴は基本的にコミュニケーション能力は低い。もちろん、大学に入ってすぐの自意識のみが異常に高い男子達はもじもじして、異様に目だけをぎらぎらさせながらお互いを牽制しあっていた。
  僕はもう、ラオチューの魅力に惹かれてやってきたので、このサークルでU2みたいなロックをするのだと自分に念仏のように言い聞かせながら、なんとかここになじもうとしていた。基本的には音楽をやろうとする人たちが集まっているのである。僕は楽器は一切出来ないけど、脚本が書きたくて声が大きいというパーソナリティを武器になんとかこの場に溶け込もうとしていた。ぼそぼそとみんなが音楽の話をしている。何が好きなの?ああ、あれか。あのアルバムいいよね。俺はそんなに聞き込んでないけど。
  その辺の話を漏れ聞いていると、なんだかそんなにすごい音楽フリークが揃っているわけではなさそうだった。カートコバーンが死ぬ2日前のことだ。グランジを聴いてりゃあまあ大体現代ロックは語れるという雰囲気だった。パールジャム、アリス・イン・チェインズとかの話をしてりゃだいたい大丈夫だった。あとレッチリ。スマパンがブレイクする一年前だ。ひょー。僕がそんなにすごい音楽フリークだったわけじゃ全然ないけど、そんくらいのことは知っていた。だからなんとなく話をあわせながら、「こりゃあ中学の時に米米クラブを聞いてたことは隠さねばならん」とか思っていた。思っていた矢先にさっきからずっと下を向いていた奴がこっちを見つめだした。なんだ。なんか変な風貌の奴だ。もてなさそうだ。しかし目の奥に鈍いながらも危険な光を宿している。こういう奴こそ音楽フリークなのかもしれん。ここはボロが出ないように慎重に対応せねば。BOOWYの熱狂的なファンだった高校時代のことは隠さねばならん。
  隣の席のもてなさそうな男は「なあ俺とバンドしないか」みたいなことを言った。まさに渡りに船だ。バンドをやりたくてこのサークルに入ってきたのだ。ラオチューみたいになりたいのだ。「もちろんいいよ」と僕は言う。
「まあ最初はコピーバンドからかな」ともてない男は言った。
  出来たらラオチューみたいなオリジナルをやりたいけれど、なにせ僕も音楽経験はゼロだ。ここは1つ妥協してコピーをするところから始めねばならん。「わかった」といってみる。何をコピーする?ニルヴァーナ?ダイナソーJr?ボガンボスとかでもかまわねえぜ。
「安全地帯」と彼は言った。
  僕は「ああ、安全地帯ね」と反射的にリアクションしたあと「なんだろう。安全地帯って」と必死で考えた。安全地帯?安全な地帯?今まさにするどく学生生活に突入しようとしている自分にとって、安全な地帯は一番遠い場所であるように思えた。あ?ひょっとしてバンドの安全地帯?って気づくのは8秒ほどしてからだった。で、「あはは、あの井上陽水のバックバンドだった安全地帯ね。っておい!」とのりつっこみ気味に言ってみたが彼は「うん」とかいって、「まあ最初は”碧い瞳のエリス”からかな」とか言っていた。まじか。いや、安全地帯を否定するわけではないし、なんなら小学校時代には結構聞いていたけど大学の軽音サークルってもうちょっと尖がった音楽をやるんじゃねえの?斉藤由貴に曲を提供してたミュージシャンの曲を演奏してていいの?
  というわけで、僕はぶつぶつと「ああ。あれね。安全地帯ね。ふふふ。玉置浩二ってセニョール玉置っていうものまね芸人いるよねー」みたいなことをいいながらその場を去った。
  去ったのだ。
  僕はFSSへの入部を断念した。これを後の歴史家は「FSS断念の決」と名づけた。いくらなんでも最初に誘われたコピーバンドが安全地帯では遠すぎる。幸先が悪すぎるし、2つ目のコピーバンドがCCBとかになりかねない。
  しかし、もう音楽をやるってことはなんとなく決めてしまったので、というか演劇のみずぼらしさにすっかりショックを受けていたので、音楽以外にもう道はないと踏んだ。ここで他のカルチャーを探している暇はねえ。音楽は好きなんだし、ラオチューに出来ることなら俺にも出来るだろうってな具合だった。で、翌日FSSの隣にあったSMMAというちょっと危険な名前のサークルの扉を開けた。SM・マニアック・アソシエーション?と思ったが違った。サザン・マウンテン・ミュージック・アソシエーションの略だというそのサークルは、いつもいつも南の山登りをしながら自分を極限状態に追い込み、そこから出てる音楽的衝動のみを「ロック」と呼ぶ超原理的なロック集団であるというのは嘘で、女の子だらけで、なぜかいつもブラックミュージックが流れていた。安全地帯ファンはいなかった。というか、あれいらい「安全地帯」という単語を聞いたことはない。あれが最後だ。SMMAではカートコバーンの自殺とジェームスブラウン来日がほぼ同温度で語られていた。U2のこともみんな知ってたし、まあここでいいかと僕は思った。将来音楽で食べていくわけじゃないし、楽しい学生生活を送りたいだけだ。女の子がたくさんいて、音楽のセンスがおかしくないならここでいいじゃねえか、と僕は思った。

  で、そのSMMAで最初に作ったのは「どらまーず」というバンド。ひどい名前だ。これは当初ボーカルの僕とドラムの女の子しかいなかったのでこの名前になった。結成理由はなんとなく。ドラムの子がかわいかった。どういういきさつだったか忘れたが、やけにギターのカッティングのうまい男子がバンドに入った。あとなんかどっかのライブハウスでナンパした女子が入った。彼女の名も平井という。サークルでは「かわいいほうの平井」と言われていた。男の方の平井は当時は駄目人間だったからである。彼が成功という名の土地を買う約6年前のことだった。
  どらまーずはギターの男子がブラックミュージックが大好きだったこともあり、ソウル・ファンクのコピーバンドをやってみることになった。ジェームスブラウンとかスライ&ファミリーストーンとかそういう音楽。そのバンドはベースがいなくて、あれ?いなかったんだっけ?とにかく夏の合宿くらいまではベースはキョウヘイというパンクロックな男の子だった。で、確かそのキョウヘイが「やっぱり俺はパンクをやる」という至極まっとうな理由でいなくなり、ベースをどうしようかなあとか思っていたときにありちゃんと飲みに行った。
  というか、本当にこの辺の記憶があいまいでそのうちありちゃんにも聞いてみようと思うのだけど、とにかく僕は女の子と二人で呑みに行くなんていう経験はほとんどなかったのに、ありちゃんとともに大学一回の夏に飲みに行った。で、やけに樹木の匂いのするカントリーバーみたいなところでなぜかありちゃんから猛烈に「私をバンドに入れてくれ!」というアピールをされた。有田さとこいわく「人生で最も自分を売り込んだ瞬間」だったらしい。
  彼女のプレゼン内容要約。
 「私は帰ったらベッドの横にすぐベースが置いてあって、すぐにアンプの電源を入れてずーっとベースを弾いている。ものすごく練習してんねんで」
  これもあんまり僕は覚えていないのだけど、なぜか「うーん」としばらく悩み、一体何を悩む必要があったのか。ありちゃんのベースに不信感があったのか。ほんとにうまいのかお前?みたいな疑心暗鬼なのか?しかし前述の通り僕はほぼ音楽的素人であり、基本的にははったりの男だった。まあ、今だってはったりみたいなものだけど、良いベーシストとそうでもないベーシストを聞きわける耳など一切持っていなかった。ぶっちゃけていうと、僕が有田さとこのベースの才能に気づいたのは出会って7年くらい経ってからである。それまでは周りがみんなうまいうまいっていうから「だろ?あいつはすげーよ」とかいって適当に話をあわせてた。っていうかこの話今までありちゃんに一度もしたことないけど、これ読んでなんて思うんだろう。微かにも想像できない。
  ま、しかし僕は酔った勢いでその猛烈なありちゃんプレゼンに押し切られそこでやっと二人はバンドメンバーとして出会うわけです。1994年夏のことでした。いえー。
  ちなみにどらまーずは結成して11ヵ月後、1995年3月に解散。ファーストライブが解散ライブでした。「みなさんはじめまして、そしてさようなら」というMCが伝説になったという伝説があるが詳細は定かではない。都雅都雅という京都の寺町通にあるライブハウスが僕の初出演ライブハウスということになる。
  で、このどらまーず解散の理由というのが20代前半のバンドの解散理由に最も多い「あるメンバーがついて来られない」だった。つまり、5人バンドのうちの1人だけなんとなく浮いちゃってるのである。それはキャラクターであるときもあるし、音楽的力量であるときもあるし、センスのときもある。あとは根本的な音楽への熱量が違う場合もある。しかし、20代前半までのバンドには肩を組んで「音楽がさあ俺達をさあつないでさあ」みたいなこう青春って言うか、仲間っていうか、あのころはほんとにほとんど食うもんもなくって、メンバーで必死で毎日を生きてたよね、ポケットに夢だけつめこんでさ・・・。みたいな世界なのよ。だからメンバーが一人浮いてるくらいではクビに出来ないんですよね、なんとなく。音楽よりもつながりや人間関係を大事にしちゃうから。そんな20代前半までのバンドがよくとる手法が「バンドはもろもろの理由により解散!で、メンバー1人だけ変えて新バンド結成!」というこれである。そんなバンドを100は見たことがある。まじで。
  と、いうわけで、どらまーずのドラマーだけ変えて僕はカリフラワーズというバンドを結成。
  なぜかサックスやダンサーとかも入ってきて、訳わかんねえ言葉でわあわあ歌うファンクバンドが出来上がった。この頃の僕はギターが弾けなかったので、ただただマイクに食いつくように叫びまくるボーカリストで、いやまあ叫ぶったってそんなコアでデスでアンダーなものを想像されると困ってしまうのだけど、どっちかというと「声量が少ないくせに必死で黒人の物まねをしようとしている痛い日本人」の叫びだ。つまり英語で言うとシャウトだ。ゲロッパ!みたいな奴だ。もちろん僕は南部なまりの英語などはうまく発音できなかったので、そして英語自体さっぱりわかりゃしなかったので、もう適当に英語っぽく歌った。よくロボピッチャーのライブで「歌詞のないところはなんていってるんですか?」と聞かれるけれど、あれは適当にその場で言葉(というか音を)作って歌っています。その技術はこのファンクバンドの中で得た。
  カリフラワーズは実は結構がんばったバンドで都雅都雅やRAGというライブハウスでライブを行い、月に2回はライブをきちんとする学生バンドだった。ライブが終わったら毎回僕とありちゃんは朝まで飲んだ。他のメンバーはだいたい帰っちゃうけど僕とありちゃんは必ず朝までライブハウスの店長さんとかと飲み続けた。この時期RAGの店長さんは寺島さんという人だった。まあなんというかこの人とは今でも僕、ありちゃんともにつきあいがあり、二人の恩人みたいな人だ。この人がいなかったら僕は音楽なんてとっくにやめてもっと優秀な社会人になっていると思う。そういう意味では恩人なのかどうかはわからん。まあ、しかし、1995年はとにかくよく僕とありちゃんと寺島さんは3人で飲んだ。サークルの話とか、恋の話とか、下ネタとか、音楽の話とか、バンドの話をしてた。話すことはほんとに山ほどあった。いくらでも話せた。もし100時間起きていられたら100時間分話すことはあったと思う。で、まあまあカリフラワーズはそれなりにお客さんも増えてきて(今から思えば月二回のライブに毎回40人以上呼んでいたのだから結構すごいことだ。まあサークル員が多かったのだけど)それなりに評判にもなり、そしてもちろんそれなりに悪評も高まっていったのだけど、ドラマーが辞めるといいだした。まあ、やはり因果は巡るのでしょうな。どらまーずの時に辞めさせたドラマーの怨念かもしれん。あれ?ギターもその前に辞めたんだっけな?忘れた。いずれにしても、バンドってのは波乱万丈では続いていかない。その場の諍いをなんとかおさめてなだめすかしつつ運営しても絶対にうまくいかない。カリフラワーズは僕とギターの仲が悪く、ドラマーは完全に音楽性を間違っていた。FUNKとかぜんぜん関係なかった。アズテックカメラが好きなドラマーだった。いや、俺だって好きだったけど、カリフラワーズはファンクバンドとしてそれなりにがんばって活動しちゃってたし、いまさら「やっぱネオアコだよねえ」とかいえる状況じゃなかった。そんな内部の微妙なずれを引きずりながら続けるにはバンドってやはり重い。日常にかける物理的な負担も大きいし、ちょっとやる気をなくしてくると、複数の人間で1つのものを作り上げるっていう精神的な責任みたいなものがものすごく重い。
  で、カリフラワーズ解散。
  解散が決まった時は僕は確か御池河原町の角で泣いたと思う。ありちゃんがそばにいてくれたと思う。
  カリフラワーズ解散以降はありちゃんともやや疎遠になり、僕はハラッパ=カラッパというバンドを結成し、ありちゃんはジャッカルというバンドを先輩たちと始めた。ジャッカルはみるみる頭角を現し京都の人気ロックバンドになった。僕はしこしこと曲を作り始め、やっと自分のオリジナル曲だけでライブをしたのが1997年。22歳にして初めて人前でギターを弾くことになる。
  ハラッパ=カラッパとジャッカルは一緒にライブをしたりしてそれなりにありちゃんとは時々会ったりはしていたのだけど、2ヶ月に一回会うか会わないかくらい。僕は途中で就職などしてしまいさらに疎遠になった。ありちゃんは卒業と同時くらいから「京都町内会バンド」というバンドにも入り、そこでどんどん精力的に活動していた。僕はサラリーマンとして働きながら、ジャッカルや町内会バンドがうらやましくてしょうがなかった。「俺だって音楽だけをやってたらもっとすげえんだぜ」とか思ってた。だいたいそんなこと思ってる奴はそんなにすごくならない。実際会社を辞めてしばらくはなんかぼんやりして時間がありすぎて曲も一切作れなくなっちゃったし。
  ありちゃんと再び仲良くなるのは僕が会社を辞めて2年ほどしてからか。2001年の秋くらい。ジャッカルがなぜかすごくいい調子の中解散して、ぼんやりとしていたありちゃんと飲みに行って、なんとなくまた一緒にまたバンドをやろうっていう話になった。なんでバンド作ることになったんだっけな。おぼえてねえ。で、ドラムがいないからどうしようっていう話になって、どっかからありちゃんが女の子のドラムを見つけてきてスタジオに入って練習をした。ちなみにこのときに僕は初めて「うわーこの人すげえ才能のあるベーシストなんだなあ」と思った。圧倒的にすごい音を出していた。音の粒が他のベーシストとまったく違うし、必要なところに必ずどっしりと芯がある。トリッキーでクリエイティブでぱっと聴いただけで「うひゃーすげえー」ってなるベースではないけれど、じっくりと聴くと腰骨を内側から揺らすようなリズム。日常の続きに音楽があり、日常の中で楽器を触っている人だけが到達する小宇宙みたいなものがあって、そこはやはり努力だけで行き着ける場所ではない。ありちゃんは最初っからここを目指していたんだなあと思った。そして「うわー、駄目だ、俺こんな似非ミュージシャンなのにこんなすげえ奴と一緒にバンドなんてやったら絶対にいじめられる」と思った。
  しかし運命ってのはむちゃくちゃなことをするもので、前述のハラッパ=カラッパ解散はこの練習の1ヵ月後である。というか、この日の練習も解散のきっかけの1つだった。僕はもうどうしようもなく音楽がやりたくて、どうせやるなら本物のミュージシャンと音楽をやりたかった。音楽という道をはっきりと選んだ人と音楽をやりたかった。そして何よりありちゃんとバンドをしたいと思った。それくらいすごいベースだった。ありちゃんと出会って8年目にしてやっと彼女のミュージシャンとしての本質の一端を見た気がした。

  で、やっと、この章の冒頭に話が戻る。
  平井さんの結婚式の日の夜、ありちゃんから電話がかかってきた。
「昼間はごめん。しっかり話せなくて」
「いやいや。こちらこそ間の悪い電話でごめん。平井さん結婚式やったんやな」
「うん。結婚してた(笑)」
「結婚してたかー(笑)」
「うん。で、バンドやけどどうしよう」
「そやなあ。まだ二人しかいいひんからな」
「加藤がギター弾くの?」
「うーん。出来たらギターは別の人がいいなあ」
「そっか。じゃあ、ドラムとギターを探さなな」
「まあそやな。色々考えてみたけどいいドラマーってなかなかいいひん」
「そやなあ」
「崇さんは?」
「そりゃ崇さんがやってくれたらむちゃくちゃすごいけどなあ」
「ちょっと声かけてみてよ」
「えーわたしがー?」
「じゃあ、俺がしてみるか」
「してみてよー」
「わかった。あ、それから、ひょっとしたらこのバンドのためにお金を出してくれるかもしれんねんT花さんが」
「T花さん?なんで?」
「なんかあの事務所で音楽部門を立ち上げるんやって。で、その第一回ミュージシャンとして俺をどうかと言ってる」
「お金ってどれくらいでるの?」
「さあ。わからん。というかお金をかけて音楽を作ったことないし」
「そやなー」
「ま、とにかく崇さんに電話してみるわ。T花さんとも崇さんは知り合いやし、話もまとまりやすいかもしれん」
「そやなー」
「はい、ほんじゃね」
「ほんじゃねー」
「あ。ありちゃんありがとう」
「?」
「バンド」
「ああ、うん」
「じゃね」
「じゃね」
 とかそんな会話。
 ともあれ、ロボピッチャーはやっと2人になった。
 ちなみに、この会話の途中ででてきたT花さんによってロボピッチゃーは結成前にいきなりピンチを迎えたりする。その件については多分次の章で語られる。


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