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  「限りある世界で」について
 
 この曲を作った時のことは覚えていないのだけど、初めて演奏した時のことは鮮明に覚えている。
 それはまぎれもなく2007年10月6日。「ボロフェスタ’07」の初日だった。
 
 その前日に、さまざまな理由で西部講堂の外ステージが使えなくなった。
 その理由についてはここで書かない。
 概略をいうと「とてもつまらない理由」で外ステージが使えなくなった。
 
 チケットが既に何千枚も売れているイベントで、突然前日にステージが使えなくなって、外ステージに出る予定の人たちが全部中に出ることになって、全部のタイムテーブルを変えなくちゃならなくなって、すさまじく分刻みのタイムテーブルに代わって、ロボピッチャーの演奏時間は15分ということになって、つまりイベントが10分押したら僕らの出番はなくなるという状況になった。
 僕は西部講堂の事務所から出たところにある階段から、その電話をメンバーにかけた。
 僕らの演奏時間は15分しかない。
 もしかしたら演奏できないかもしれない。
 メンバーが正確になっていったかは覚えていない。でも、文句を言った人は一人もいなかった。みんながわかったよと言ってくれて、それでも良い演奏をしようと言ってくれた。僕はもうなんだか泣けてきて、その時初めてボロフェスタで泣いた。その様子をLimited express(has gone?)の飯田君に目撃されて、後にいいふらされることになる。
 
 ボロフェスタ’07の前日は、僕の人生でも最悪の日で。
 ボロフェスタのために集まった数十人の人たちが明け方まで急なタイムテーブルの変更に対応させられた。
 僕らを信じて集まってくれた人たちが、過酷な環境で働いているのを見るのはとてもつらかった。
 その合間を縫って、僕は「限りある世界で」の歌詞を書きなおしていた。まだ出来上がっていなかった。確かゆーきゃんに歌詞を見せて、「ここがまだ駄目なんだ、お前ならどうする?」と聞いた気がする。ゆーきゃんがなんていったか覚えていないけれど、この曲のある部分をとてもほめてくれて、それは僕が良いと思ってる部分と同じだったのでずいぶんうれしかった。
 
 午前4時くらいにまだ作業は続いていたけれど、それでも僕は帰って眠ろうと思った。ボロフェスタの代表だけど、僕は帰って眠らなくてはならなかった。なぜならその翌日に僕はミュージシャンとして歌を歌わなくてはいけなかったからだ。歌えないかもしれないけれど、歌えるかもしれないから、1分でも長く眠らなくてはならないと思った。
 西部講堂を出て、家についてこの曲の歌詞を書きなおした。明日、西部講堂で僕が歌う最後になるだろうと思った。それに最も適した歌詞にしなくてはならないと思った。今のままでは、ただのいい曲だけど、西部講堂で歌うための曲にしなくてはならないと思ったのだ。
 
 翌日の朝9時からロボピッチャーのリハーサルがはじまった。
 僕は人生の中で、あんなに一生懸命リハーサルで歌ったことはない。これが西部講堂で歌う最後だと思って歌った。
 
 ボロフェスタ’07がはじまって、僕は夢の中にいた。
 タイムテーブルどおりにイベントが進行していって、みんながロボピッチャーにライブをさせようとしてくれているのだと思った。
 なんとたくさんの人が僕らのために動いてくれているのかと思った。出演者のすべてが一曲ずつ曲を削ってくれた。フェスティバルが出来上がっていった。「ロボピッチャーライブできますよ!」という言葉をスタッフからもらうたびに泣きそうになった。
 
 僕らの前にライブをしたのは誰だったか、その日他にどんなことが起こったのか覚えていない。
 ただ僕らはたくさんの人たちのおかげでステージにあがり、音を出した。
 その時に僕はMCで「このライブのために作った曲です」といって「限りある世界で」を初めて演奏した。
 
 どんな演奏だったのか。もうわからないけれど、その時に言葉が客席に向かって飛んでいったのを覚えている。
 あの瞬間のことを僕が忘れることはないだろう。
 ありふれた憂鬱を抱えたまま音楽を始めた痩せぎすの文系男子が、ロックに一番近づいた瞬間だったかもしれない。
 いいすぎかもしれないけれど。
 
 とにかく。
 この曲はロックの幻想も、汚れた景色も、夕焼けの退屈さも、足元で腐った死骸の匂いも、めちゃくちゃな世界の謎も、全部限りある世界にあると規定して、さらにそこに「世界一純粋なロックフェスティバル」の熱情をたたきこんで創られた。
 
 もうこんな曲は創れないし、創りたくない。
 
 ロボピッチャー 加藤隆生
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